2021.12.3-12.21【ウィークリーレポート@令和二年七月豪雨球磨村】

【令和2年熊本豪雨@神瀬地区】12月3日~12月7日

『やっぱ、なんかせんば。盛り上げんばね!』

12月4日に球磨村の神瀬地区の集会所で最後の『神瀬の集い』が開かれました。

神瀬地区の中心にある集会場の解体も決まり、これまで過ごしてきた感謝の気持ちなども寄せながら、みんなで時を過ごしました。

午前中には、神瀬のみなさんの手作り看板を設置しに各地区へ同行しました。

 

『この辺が見やすいかな?』

『区長さん呼んで聞いてみよう!』

『○○さん、○○住民やけん、ほら一緒に!』

マダム二人かがりで一緒に杭を打ち込む姿は力強く、神瀬の子どもたちが書いた看板はそれぞれの地区を彩っていました。

会には、何度も神瀬に脚を運んでくださったライオンズや甲佐中学校・菊池女子高校・南陵高校の皆さんが来て、会をダンスや演奏・歌・食事など、それぞれが一所懸命に打ち込んでいることで住人の皆さんにエールを送り盛り上げてくれました。

また、神瀬マダムのコンニャクイモを被災した畑から発掘してくれた中学生も両親と一緒に神瀬へ遊びに来て、マダムとの対面を喜んでおられました。

その日はマダム炊き出しはない予定でしたが、

『やっぱなんかせんばね』と自前で持ち込む方の姿もちらほら。

お汁やお漬物が並び、今回もおなか一杯、愛情をいただきました。

毎度全力投球の住人さんによる人吉スカピカライブも響き渡っていました。

神瀬マダムのお1人が

『いつも盛り上げてくれているから、私も盛り上げなくちゃ!』

と仮面持参で大奮闘。

30分ほどはライブがありましたが、ずーと踊り続け私たちもパワーをもらい一緒に踊っていました。

現在、神瀬の集会所は仮設の集会所があります。

細く長く、みんなが笑顔になれる集いが今後も続いていくことを願います。

 

 

【ここで生きて行く】 12月21日

 

昨年7月に豪雨の被害を受けた球磨村の神瀬地区。

思わぬ水害を受け、もうこの家には住めないだろうと考えていた一人の婆ぁば。

コロナ禍の影響もあり、なかなか支援の手も入りづらく、住むのは諦めるしかないと思っていたと話す。

神瀬に嫁いでから、ずっと住んで来た我が家。

この家で子供を育て、地域の皆さんと一緒に、力を合わせてこれまで生きて来た。

発災から数ヶ月、我々支援に入った者たちと、地元の被災された皆さんと、交流を持つ機会があった。

その時に頂いた婆ぁばの手作りこんにゃく。

「何このこんにゃく(;゜゜)!!」「めちゃめちゃ旨い(;゜゜)!!」と、思わず声をあげる。

「奇跡的に助かった、わずかな樫の木の灰汁で作ったこんにゃくだよ!!」と、婆ぁばは優しく微笑んだ。

「もうここではこのこんにゃくも作れないねぇ~(._.)!!」と、うつむく婆ぁば。

頭初は公費解体をするしかないと考えていた。

だけど少しずつ、少しずつ地区が土砂も消え、住みたいと願う人々の家がきれいに片付いて行く。

避難所から仮設に移り、神瀬から離れて暮らす中、やっぱり自分の家に帰りたい。

もう一度あの家に帰りたいと、思うようになったと話す。

 

神瀬を離れてしまう人々も多く、なかなか災害前とは違うかたちになるとは思うが、それでもこの場所に戻りたい。

そして、神瀬を離れた方々がいつか、神瀬を訪れたとしても、寄っていける所として、この家で待っていたいと婆ぁばは話した。

多くのボランティアさんの手で、何とか住めるようにきれいなった家。

昔から地区のみんながこの家を寄り所にして、いろんな事を話し合っていたと話す婆ぁば。

これからもそんな家であって欲しい・・・、これからもそんな婆ぁばであって欲しい!!と願った。

孫から「婆ぁばの家でお茶会ができるといいねぇ!!」と言われ、もう一度この家に住むと決め、婆ぁばのお茶会もしっかりと実行した。

あれから1年が過ぎ、神瀬地区は公費の解体も進み、我々がベースとして使っていた旧小学校(たかおと)も解体されるという。

たかおとをメインとして、多くの炊き出しをしてくれた神瀬マダムの皆さん。

今後は婆ぁばの家の釜戸をメインに、神瀬の集いの際に、美味しい料理を作る事であろう。

本日12月20日、神瀬を訪れた。

「萬さん!あんたらがきれいにしてくれた天井に、ボードが張られて仕上がったよ!!」と、嬉しそうに自分を釜戸に案内する婆ぁば。

その眼差しには、しっかりとここで生きて行くという覚悟が見えた。

重機隊 (萬)

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