令和2年7月豪雨災害から2年の球磨村神瀬地区

新型コロナウィルスが猛威を震い、全国に非常事態宣言が発令され、人々の不用不急な移動が制限された、令和元年の年度末。

令和2年度が始まり、自然災害が発生したならば、支援の手は大きく削がれると、予測されていた中に、令和2年7月豪雨災害は発災してしまいました。

大きな被害を被った熊本県に於いては、県外からの人の受け入れを、厳しく制限せざろう得ない、発災でありました。
当時時間がかかったPCR検査に陰性の確認を受け、技術系災害支援団体として、県からの要請を受けるかたちで球磨村入りしたのが、7月の下旬でありました。

活動初日の日に、不通になっていた国道219号線が開通し、人吉方面からの行き来が容易になった神瀬地区。
コロナの影響により、ボランティアの皆さんを、全国から集める事が出来ない中、限られた人手で活動する事を余儀なくされました。

発災から多くの時間が経過した中、被災された皆さんは、避難所から神瀬に入る事もままならない状況におかれ、何も手が付けられない状態に、只呆然と立ち尽くすばかりでありました。



そんな神瀬の住民さんたちに、お話しを伺いながら、我々が出来る事を提案させて頂き、家屋の再生を見据えながらの活動を展開しました。

コロナ禍であるが故に集まらない人の手。

そして自分自身の感染への恐怖に、住民の皆さんが抱える不安は大きくなって行きました。

それでも前に進まなければならない。
前を向いてしっかり歩んで行かねばの想いは、我々と共に、住民さん自らが片付けに参加し、自らが家屋再生のビジョンを学び、考え、行動するようになって行きました。

そうした中、日々の活動をする我々に、住民のお母さんたちが、手料理を差し入れて下さるようになって行きました。
「私に今出来る事は、あなたたちに栄養のある食事を提供する事!!」「ここに料理を作りに来る事で、仮設から神瀬に来る理由が出来るからねぇ!!」と、笑って料理を作ってくれた事を思い出します。

そんなお母さんたちが、また一人また一人と増えて、今では “神瀬マダム” として、各イベントの際には賄いをしてくれています。

発災から1年の昨年7月には、”神瀬の集い” の開催中に発生した熱海の土石流災害。
神瀬の住民さんたちは、我が所と同じような想いで、熱海伊豆山の人々を心配されるのでありました。

「OJと仲間の皆さんに、もう一度住めるようにと、泥出しや壁剥がし、そして磨き上げや消毒までして頂いたけど、家族と相談した結果、解体する事を決断したの。」

「人手が少ない中、一生懸命活動した事に、報いる事が出来ず、本当にごめんなさい。」
と、我々に頭を下げてくれる住民さん。

「只諦めるしかない状況の家屋に、もう一度住めるかもの選択肢を提供するのが我々の役目。」

「例え解体を選択されようとも、今まで住まわれた家に、ありがとうの意味を添えて、お別れしては!?」と提案していました。
もう一度住めるようにする事も、解体を選択する事も、家にこれまでの感謝の想いを添えてと。

また1年、年を重ねた神瀬には、もう一度家屋の再建を成し、そこに住む覚悟を抱く人々と、嵩上げの後の再建を模索する人々、そして再建を諦めるも、神瀬に帰れる居場所を模索する人々で、豪雨で亡くなられた方々を偲ぶ、3回忌法要が営まれました。

わずか1年の生活でしたが、我々が拠点として活用させて頂いた、旧神瀬小学校(後に高齢者施設たかおと)も、公費解体が完了して、只ただ平地になっていました。

神瀬に帰ればたかおとに泊まれる。

そうした帰れる場所であったたかおとも、今はなき平地。

帰れる場所をなくした住民さんの想いを、我々も今回、肌で感じた次第にございます。

「OPEN JAPANさんお帰り!!」「萬さんお帰りなさい!!」と、声を掛けて下さる神瀬の住民さん。

皆さんと今回、集いと3回忌法要を、一緒に催す事が出来た事に、人との御縁、そして仲間の存在の大切さを知りました。

これからは神瀬の皆さんと、支援する側される側との立ち位置から、出来る事を共に成し遂げて行く仲間として、御縁を繋げて行こうと、住民の皆さん一人一人にお話し致しました。

神瀬の集いと、3回忌法要の席にて。 (萬)

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